加藤 英子(かとう ひでこ)

1936年03月05日 -

学生歌「みはるかす」作詞者 加藤(旧姓:鶴若)英子氏

経歴

1936年3月 神奈川県横須賀市汐入町に生まれる。
1955年 神奈川県立横須賀大津高等学校卒業
1955年 横浜国立大学学芸学部入学
1955年 学生歌「みはるかす」作詞
1959年 横浜国立大学学芸学部教育科卒業
1959年 藤沢市立鵠洋小学校教諭
1962年 横須賀市立大楠中学校教諭
1965年 横須賀市立馬堀中学校教諭
1976年 横須賀市立大津中学校教諭
1986年 横須賀市立鴨居中学校教諭
2008年9月8日 学生歌として現在に至るまで在校生・卒業生に親しまれていることに対して、大学として謝意を表すため飯田学長から「感謝状」が授与された。

学生歌「みはるかす」作詞者 加藤(旧姓:鶴若) 英子 氏

 学生歌「みはるかす」を作詞した頃

 昭和30年(1955年)、横浜本牧の広い土地は米軍に接収されており、芝生の緑美しい住宅が建ち並んでいました。 その手前の丘の上に立野の旧校舎はありました。 市電の大和町停留所からしばらく登った処でした。  横浜国立大学の新入生初年度の教養課程を三学部(経済・工学・学芸)の学生が一緒に学ぶ処でした。 二年次からは夫々の学部で夫々の課程を学びます。

 当時の学制で二期校、旧帝大系他の一期校ではない国立大学です。 何とも言えない挫折感を抱える者達もいる一方、ここから何か新しい道へと想いをめぐらす者もいる。 何かもやもやとした大学生活の始まりでした。

 きちんとした日取りは忘れましたが、鬱屈した思いを何とかしたいと、学生自治会の、大学当局も入った形で「学風創造運動」と名付ける様々な動きが始まりました。 廊下にはたくさんのポスター、穏やかな檄のようなものもありました。 講演会、サークル活動への呼びかけ、フォークダンスパーティの開催等、学部を越えて仲間友達の話す場を広げようというものでした。 その中の一つに学生歌募集があったのです。

 期日も終わりに近い梅雨のはしりのような曇った夕暮れに、全く体をなさない形で、私は自分のその頃の想い心の内の詞を、箱に入れました。 ノートの一片を封筒にも入れず、しかしひどく自分がほっとした瞬間だったのを覚えています。

 後日選者であられた国語科の先生が、ものを知らないと仰言ったと友達から聞き、本当に恥ずかしいと思ったのも忘れられない事です。

入選歌が廊下に貼り出されました。

一席は確か国語科の方の歌で、格調高くことばの調べも美しい三連までの素晴らしいものでした。 短い私の歌は端っこに佳作として並んでいました。 それでも賞金を頂きました。 1,000円であったか1,500円であったか、クラブのお仲間とのビール代になりました。

 そして歌詞に付ける曲の募集がなされました。 歌詞一席の作品に曲がつくものとばかり思って居りました。

 翌31年(1956年)の秋、私の歌を選んで曲を作って下さった方があったのです。 当の大根田さんからのご連絡で知りました。お会いしてお話を伺ったのは秋の鎌倉でした。 若者が良い世の中を作って行けると真剣に思っている、勉強しなくてはと歌詞に連ねただけでした。

 佳作だった私の詞を学生歌にして頂けたのは、工学部にいら した大根田さんが素晴らしい曲 をつけてくださったからです。

 若い思いを言葉に込めた。 在るがまま唯真っ直ぐにその時の 想いを綴った。 それが調べを作 る人の目にとまった。 美しい曲 に編まれた。調べは多くの若い 想いをふくらませた。 のでしたら、何と嬉しいことで しょう。 大根田さんの作られた 曲に心から感謝致します。


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