亀井 俊郎(かめい としお)

1933年 - 2004年

略歴

1933年  茨城県水戸市に出生
1955年  横浜国立大学工学部造船工学科卒業
川崎重工業(株)入社
1987年  同社 鉄構・機器事業部副事業部長兼野田工場長
1989年  同社 取締役就任 産機・鉄構事業本部副事業本部長兼FA・機器事業部長
1992年  同社 産機・鉄構事業本部副事業本部長兼FA・ロボット事業部長
1993年  同社 常務取締役就任 資材本部長
1995年  同社 専務取締役就任 資材本部長・営業総括本部副本部長
1997年  同社 取締役社長就任
2000年  同社 取締役会長就任
2003年  同社 特別顧問就任
2004年  海外出張先のイタリア・ミラノで急性心不全のため逝去(享年71歳)

業界関連

1999年  社団法人 日本産業機械工業会 副会長
1999年  社団法人 関西経済連合会 科学技術委員会委員長
1999年  社団法人 日本造船工業会 会長(~2001年)
1999年  運輸省 海運造船合理化審議会 委員
1999年  財団法人 次世代金属・複合材料研究開発協会 理事長(~2001年)
1999年  通商産業省 航空機工業審議会 委員
2000年  スーパーマリンガスタービン技術研究組合 理事長(~2001年)
2000年  社団法人 日韓経済協会 副会長
2001年  日本船舶輸出組合 理事長
2002年  財団法人 製造科学技術センター 理事長

教育・科学技術政策

1998年  第8代弘陵造船航空会会長(~2003年)
弘陵造船航空会;横浜国立大学工学部造船工学科同窓会
2000年  横浜国立大学運営諮問会議委員(~2004年)
2001年  内閣府 総合科学技術会議 科学技術システム改革専門調査会 専門委員
2002年  内閣府 総合科学技術会議 重点分野推進戦略専門調査会 専門委員

業績

■ 亀井俊郎氏が、本学で造船技術を修め、川崎重工業(株)神戸造船所造船工作部の現場技師として会社生活をスタートしたのは1955年(昭和30年)、まさに日本の造船業、重工業が世界をリードする黄金期を迎えようとする頃であった*。同氏は学生時代からヨット、謡、茶道、古寺巡りなどと多彩な趣味に入れ込んでいたが、川重入社以降はそれらを封印し、2004年5月にミラノで逝去されるまでの49年間、同社での仕事一筋の人生を送られた。最近頂いた奥様 喜久枝様の書信にも、「・・夫は何事にも怖れることも、憂うることもなく、ただ川崎重工(株)の名を背に走り続けた49年間でした。その傍ら、得意とする論文発表の場を数々与えて頂き、この時もイタリアの美しい街コモ湖のほとりの国際会議場での発表を終らせ、帰路途中に自らの舞台の幕を閉じました。・・」とある。
注* 日本造船業は海軍の平和的技術遺産を基礎に、敗戦後の壊滅状態から短期間に復興し、1956年(昭和31年)英国を追い越し、進水量世界一を達成した。(伊藤正徳 「大海軍の遺産」 1957年(昭和32年)文芸春秋5月号)

■ 造船からスタートした亀井氏は、次第に生産管理技術を専門とするようになり、造船の世界を離れ鋼構造物全般に係り、新規事業の立ち上げや赤字部門の立て直しに取り組むことになる。橋梁や鉄骨などをつくる新工場の立ち上げ、砕石機などを扱う事業部の再建、ファクトリー・オートメーション(FA)部門の立て直し、国産ロケットの関連設備事業の立ち上げなど、逆風の中にあっても川重の社業の伸長に大きな貢献を果たした。同氏は溶接技術や生産管理、品質管理の分野で新技術の導入や多数の特許出願など技術的リーダーシップを執り続け、社内ではIE(Industrial  Engineering)導入の祖として高名と言われている。その頃出願された特許並びに川崎重工技報に発表された技術論文2編(橋梁の生産情報システムとライン生産システム、揚水発電所水圧鉄管の据付新工法「カプセル工法」の開発)を展示資料に示している。

■ 川崎重工を支える多くの事業分野での貢献が評価され、亀井氏は徐々に同社の企業経営に携わることとなり1989年取締役、1993年常務取締役、1995年専務取締役を経て、1997年(平成9年)5月代表取締役社長に就任した。公共投資の抑制や国際競争の激化によって、受注環境が急速に悪化する中での就任であったが、当時のNIKKKEI BUSINESSの記事には、「環境の厳しい時期に社長に指名されたのに、この社長からは1つの恨み言も聞こえてこない。厳しいほど、やりがいも増すと逆境を楽しんでいるようにさえ見える。」と紹介されている。亀井氏の座右の銘は、「失意泰然、得意淡然」(物事がうまくいかなくなっても、焦らず落ち着いて時節の到来を待つべきだ/うまくいく得意の時代には、おごらずつつましい態度で当たるべきだ)であったという。この言葉の出典 安岡正篤「百朝集」を展示資料に示している。
社長就任以降、1999年の日本造船工業会会長を始め業界の要職を歴任する。韓国造船業の大攻勢の中での造工会長であったが、同氏は日本造船業が引き続き世界の造船業のリーダーとしての地位を保持するためには、先ず技術力を強化する必要があり、その為に取り組むべき課題を従来型の製品に止まらずメガフロート等海洋分野も含めて抽出し、業界を指導した。その他内閣府総合科学技術会議専門委員、横浜国立大学運営諮問会議委員として科学技術政策、大学教育に関しその改善・活性化に取り組んだ。また同窓会組織の弘陵造船航空会第8代会長を務めた。


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