YNUプラウド卒業生文庫 竹井 准子
竹井 准子(たけい たかこ)
経歴
1957年2月3日 | 東京都品川区にて、父竹井光治・母治子の次女として生まれる |
1976年4月 | 横浜国立大学工学部応用化学科入学 |
1979年4月 | 応用化学科大塚研究室 |
1980年3月 | 横浜国立大学工学部応用化学科を次席卒業 |
1980年4月 | 埼玉医科大学医学部を首席で入学 |
1986年3月 | 埼玉医科大学医学部を首席で卒業 |
1986年6月 | 順天堂大学医学部形成外科教室入局 |
1991年9月~ 1993年3月 |
ドイツマンハイム大学留学(哲学) |
1993年12月 | 調布えきまえ皮フ科開院・院長(天野三恵子氏(姉)と共同) |
2010年8月頃 | がんに罹患したことを姉に話す |
2013年11月 | 最後の診療 |
2014年4月14日 | 逝去(享年57歳) |
2014年12月 | 竹井准子記念奨学金寄付
寄付者:竹井准子
寄付金:1億5千万円 |
2015年4月 | 『YNU竹井准子記念奨学金』設立 |
『YNU竹井准子記念奨学金』
「自分が恵まれた環境に育ったお陰で、大した頭でもないのに2つの大学を卒業した上、ドイツのマンハイム大学に留学できたことを感謝し、経済的事情のため勉強することを諦め大学進学を断念せざるを得ない人のために寄付をしたい。」
との意思を引き継ぎ天野三恵子ご夫妻が相談し、竹井治子様のご好意により『YNU竹井准子記念奨学金』が設立された。
『YNU竹井准子記念奨学金』については、以下URLをご覧ください。
http://www.gakuseisupport.ynu.ac.jp/expense/ynusp/
生い立ちと生き方、死に対する信念
2歳半ごろ自分で作った架空の“ほこだ幼稚園“に行くといって、通園する園児の格好をして近所を一周して帰ってくるような奇抜で子供だった。また、勉強だけでなくピアノも上手でなんでもできた。このころはお医者さんになると言っていたが、数学、化学が好きで横浜国立大学工学部応用化学科へ入学した。メカに強く、自動車部に入部しB級ライセンスやナナハンの免許を取得し、スピード違反で捕まるなど大学生活を謳歌した。
大学卒業後、横浜国立大学大学院への進学も考えていたが、悩んだ末父親の勧めで医学部(埼玉医科大学)に進学した。
人の死に接するのが苦手だったので順天堂大学形成外科教室に入局して医師の道を歩んだ。その後、憧れていたドイツのマンハイム大学に留学し哲学を勉強した。帰国後、姉と「調布えきまえ皮フ科」を開院し、形成外科もやりながら地域の人達から根強い信頼を受けた。バリバリのワーカホリックであったが、がんが進行したため、医院経営の第一線から身を引いて「時事放漫」のホームページを開始した。(文庫で図書を展示中)
『がんというのは、神様が与えてくれた死期だと思っている。だからあえて治そうとするより、それを享受したい。変かな。医者をやっていて、なんでみんながそんなに「生」にしがみつくのかわからなかった。父は〝生きたいと思うことは人間の本能だ。”といったけど、私は本能からずれている?
30年前に培われた厭世主義は、そう簡単に崩れはしない。面白いことも辛いことももうすでに全部経験したから、もういい。読みたい本もほとんど読んだからもういい。解けなかった数学。これは天性の問題だから諦める。だから死んでも大丈夫。
みんな1年もすれば私が死んだことを忘れる。私が死ねば、地球上のエントロピーは確実に増える。人ひとり死ぬと生きているより地球が救われるんですよぉ。』
このような固い信念を持っていたためか、医師でありながら積極的な治療を受けなかった理由が明らかになった。
若くして逝った突然の訃報に接し、国内外の大勢の友人から弔意が寄せられ,「竹井准子の思い出」の寄稿集(文庫で展示中)にまとめられた。特に親しくしていた方から以下のメッセージが寄せられた。
Takako-san, it was a pleasure to get to know you and to share some common memories.”