YNUプラウド卒業生文庫 内藤 卯三郎
内藤 卯三郎(ないとう うさぶろう)
1891年10月04日 - 1977年11月11日
経歴
1891年10月4日 | 神奈川県足柄上郡中村篠窪(現・大井町)に生まれる。 |
1909年4月 | 神奈川県師範学校(現在横浜国立大学)に入学 |
1913年3月 | 神奈川県師範学校本科第一部の課程卒業、教員免許取得 |
1913年4月 | 東京高等師範学校入学 |
1917年3月 | 東京高等師範学校本科数学物理化学の課程を卒業、物理学副手嘱託 |
1918年3月 | 東京高等師範学校研究科卒業 |
1918年4月 | 東京高等師範学校助教授兼訓導 |
1920年9月 | 東京帝国大学理学部物理学教室授業補助嘱託 |
1922年 | 神奈川師範・東京高等師範の後輩である八木重吉(詩人)の依頼を受け、島田とみとの婚約、結婚のために尽力する。 |
1926年 | 『物理学自由』を執筆して八木重吉家族を支援し、留学前も重吉を見舞う。 |
1927年3月 | 東京高等師範学校教授 |
1927年5月 | 物理学研究のため3年間英国に留学 |
1927年10月 | 八木重吉病没 |
1934年8月 | 満州国及び中華民国へ出張 |
1941年4月 | 文部省督学官に就任 |
1942年11月 | 文部省教学官と改称、国民教育局勤務 |
1944年4月 | 学徒動員本部第二部兼務 「疎開の子文書く窓に熟るる柿」叙従四位 |
1944年11月 | 叙勲四等瑞宝章 |
1945年11月 | 奈良女子高等師範学校長、奈良特設中等教員養成所長 |
1949年5月 | 愛知学芸大学初代学長就任 「童心をすまし花野を図鑑手に」 |
1951年9月 | ナショナルリーダーとして米国の教育事情を3か月視察 |
1952年 | 愛知県養護教諭養成所長兼務(1951年9月1日〜1953年3月31日) |
1954年8月 | 愛知県社会教育委員 「片付かぬ案件かぞえ去年今年」 |
1957年1月 | 教育職員養成審議会委員 |
1957年3月 | 句集『野いばら』刊行 |
1958年11月 | 初等中等教育局視学委員(61年11月も同様) |
1959年6月 | 愛知学芸大学長退職 |
1962年7月 | 国際ロータリークラブ360地区ガバナーに就任 |
1962年11月 | 日本学士会よりアカデミー賞受賞 |
1965年3月 | 内藤笈斗句碑除幕式 「散る花に流れもよどむ姫が淵」 |
1966年4月 | 勲二等旭日重光章受章 「五月晴れ涙にぬれて喜寿の宴」(翌年5月) |
1977年7月 | 岡崎市名誉市民の称号を贈られる。 |
1977年11月11日 | 逝去(享年86歳) 正三位に叙する 内閣総理大臣 |
1977年12月 | 特旨を以って位一級追陞せられる |
業績
主な著作
神奈川師範、東京高等師範を優秀な成績で卒業、東京高等師範の教授時代から、10年間務めた愛知学芸大学学長を退職した後まで、物理教育の教科書、参考書等多く執筆し、物理学の振興に寄与した。(34冊)
- 新制物理学教科書上巻・下巻 野田・内藤著 1925年 東京開成館
- 中等教育物理生徒実験書 野田・内藤著 1926年 東京開成館
- 師範学校物理学教科書・同教授資料 (上に同じ)
- 物理学自由 内藤卯三郎著 1926年 培風館
- 光学要論 内藤卯三郎著 1930年 培風館
- 電磁気学要論 内藤卯三郎著 1931年 培風館
- 新制物理学教科書 野田・内藤著 1931年 東京開成館
- 最新中学一般理科一・二箇年 高倉・内藤著 1932年 興文社
- 現代新物理学 内藤卯三郎著 1935年 東京開成館
- 現代女子新物理学・同教授資料 内藤卯三郎著 1937年 東京開成館
- 小学物理教材研究 内藤卯三郎著 1938年 培風館
- 物理 光 内藤卯三郎著 1940年 研究社
- 物理 電気と磁気 内藤卯三郎著 1940年 研究社
- 遊びの理科研究 内藤・宇井著 1944年 研究社
- 講和会議後の米国視察 内藤卯三郎著 1952年 啓林館
- AMERICA REVISITED USABURO NAITO 1953年 愛知学芸大
- 理科教育論 内藤卯三郎著 1961年 啓林館
- 小学新理科1〜6年 代表 内藤卯三郎 1965年 啓林館
幅広い人間性で後輩を育てる
1918年(大正7年)東京高等師範研究科を卒業後、同校の教師となり、物理学を専門に後進の指導に当たった。その後、昭和2年5月から、昭和4年夏まで英国に物理学研究のため留学、帰国後教授として、明晰な講義、分かりやすい実験で学生を指導。参考著書も次々出版し、大きな影響を与える。卒業後も世話を惜しまず、慕われた。
昭和16年文部省督学官、19年学徒動員本部兼務の間、全国の児童生徒の現状に目を配るとともに、終戦後、新教育方針を奏する命を受け、民主主義教育、個性の完成、道義の確立、平和国家の樹立、自由と責任、画一教育の打破、各教科の指導要点など進言する。
昭和24年5月愛知学芸大学初代学長に任じられ、以後10年間、創世期の大学としての整備・充実に尽力した。全国各地から優秀な教員を呼び寄せ、統合に向けて尽力した。長年理科の教科書作成にも関わり、理科教育の振興に寄与した。
岡崎市の振興に尽くす
書、絵、俳句、陶器の絵付けなど多趣味を活かし、交友も広く、岡崎市の文化的風土を愛し、26年岡崎ロータリークラブが承認登録されると入会。交流の輪を広げた。37年には国際ロータリークラブ360地区ガバナーに就任。市政を明るくする会の会長や岡崎市民憲章制定委員長として市政推進に寄与した。52年岡崎市名誉市民の称号を贈られる。
- 昭和32年3月 句集『野いばら』 俳号内藤笈斗(おいと) 啓林館
- 昭和40年3月 句碑除幕式 散る花に流れもよどむ姫が淵
(城下町岡崎の中心を流れている菅生川のほとりに)