山本 房生(やまもと ふさお)

1915年01月10日 - 2014年12月

経歴

 1915年(大正4年)1月10日  東京市本郷区で出生
 1937年  国立横浜高等工業学校機械科卒業
山下誠太郎教授の指導でディーゼルエンジンの研究
 1938年  小松製作所に招致採用
本社設計課配属 ブルドーザの開発・設計に着手
 1941年  トイ車の試作図面作成
 1943年  わが国初のブルドーザG40を納車
 1951年  鶴見工場長 フォークリフト、モータグレーダの生産開始
 1961年  取締役大阪工場長 大型ブルドーザの開発・生産開始
 1964年  常務取締役技術本部長
 1967年  大型ダンプトラック開発に着手
 1971年  常務取締役プラント、エンジン事業部長
 1972年  常務取締役プラント、車両事業部長
 1973年  常務取締役車両事業部長
 1974年  専務取締役車両事業部長
 1976年  小松インターナショナル製造㈱ 副社長
 1982年  小松インターナショナル製造㈱ 社長
 1984年  小松メック㈱に改名 インターナショナルとの合弁解消
 1984年  小松メック㈱ 取締役相談役
 1988年  退任 以後小松製作所の顧問として後進の指導育成
 2014年12月  99才で永眠
【表彰】
 1978年7月  建設大臣表彰を綬章
 1978年11月  藍綬褒賞を綬章
 1985年  旭日中綬章を綬章
【その他】
 日本ヨット協会理事長、副会長、会長代行を歴任
 1960年  ローマオリンピックにヨットチーム代表で参加
2004年1月20日  NHK番組「プロジェクトX~挑戦者たち」に出演
「日米ブルトーザ対決プロジェクトX」

コマツがグローバル企業になる礎を戦前~戦後に築いた山本房生さん

2017年度の理工学部推薦プラウド卒業生に名教就美会員で元コマツ専務の山本房生さんが認定されました。山本さんは、我が国初のブルドーザの設計・開発に成功し、建設機械工業の発展を指導的立場で推進し、日本を世界に冠たる建設機械生産国とすることに貢献する一方で、社会貢献としても日本建設機械化協会技術部会長、日本機械学会理事、ISO日本代表、日本ヨット協会理事、理事長、副会長などを歴任され、日本のヨット競技団体がオリンピック参加を推進された方でもあります。コマツがグローバル企業になる礎を戦前~戦後に築いた方として、“NHKプロジェクトX”に出演された方でもあります。残念ながら2014年12月にご逝去され、翌年2015年3月にコマツOBと横国大OBらの有志で帝国ホテル桜の間で偲ぶ会が行われました。以下はその時に披露されたご経歴やエピソードからの抜粋です。

山本さんは1937年(昭和12年)に国立横浜高等工業学校機械科を卒業されました。その後恩師山下教授のもとでディーゼルエンジンの研究に従事され、1938年(昭和13年)にコマツに招聘入社され、本社設計課に配属されディーゼルエンジンを搭載したブルドーザの開発に没頭されました。山本さんは、ブルドーザの父と呼ばれておりますが、昭和29年入社で山本さんを師と仰ぐ梅田さんから、陸軍参謀本部の命で当時の満州国に出張された時の思い出話が披露されました。ダムの建設工事でキャタピラー社製のブルドーザが稼働していました。山本さんは昼間その仕事ぶりを観察し、夜間は、この機械が止まっている間に分解スケッチをされました。油圧バルブなどの分解スケッチはとりわけ大変で、バルブのブロックに煙草の煙を吹き込んで、どことどこが繋がるのかを調べたということです。当然朝までに分解したものを再度組立ててしまわなければならないのです。これは大変な作業でありましたが、今となってはドラマの1シーンのように思えます。

1941年(昭和16年)11月には、陸軍用トイ車の試作図面を完成しましたが、作戦の変更により図面段階で生産中止となってしまいました。1943年(昭和18年)1月に、海軍用G40を完成させ、累計200台納車しました。国産初のブルドーザ小松1型均土機と呼ばれるものです。その後、陸軍用のトイ車も生産され、1944年(昭和19年)までに、累計80台納入されました。

終戦後建設機械業界は成長産業の先端を進む観があり、生産が間に合わないと言う状況でありました。好況にも支えられ業績が急速に伸びていた昭和35年頃、政府の貿易および為替の自由化を拡大する方針に基づき、ブルドーザに対し輸入の自由化および資本の自由化が開始されました。そのようなおり昭和36年、世界最大のブルドーザメーカである米国のキャタピラートラクタ社が、新三菱重工業株式会社と合弁企業を設立するとの構想が明らかになりました。売上高で5倍、資本金で9倍の規模を誇っていたキャタピラー社の日本上陸は、マスコミから“コマツの名前は3年で電話帳から消える”とまでいわれたほどの脅威であり、株価は300円台から62円まで暴落したほどでした。この最大の原因は、当時の日本製品の品質が米国水準に比べて相当劣っていた点にありました。

山本さんは製品品質を3年以内にキャタピラー製品と同等以上にするというマルA作戦を技術責任者として担当されました。後にNHKのドキュメンタリードラマ“プロジェクトX”でも取り上げられ主役として出演されました。

一方で山本さんの趣味であるヨットについても取り上げる必要があります。横国大ヨット部OBであり、ヨット協会の理事長、副会長(会長は当時の竹下登首相で副会長が実質協会のトップ)として日本チームがオリンピック競技に優秀な成績を上げるために尽力されました。左の写真は国体で皇太子殿下にヨットのご説明をされる山本さんです。

右の写真は2011年の煙州会例会で出席されたときの山本さん(向かって右端)です。

山本さんは自分で油壺に潮風Vというクルーザーを保有しクルージングも楽しまれていた方で、横浜の学校じゃなきゃフネに乗れないでしょと雑誌KAZIでのインタビューで語られていたほど海を愛していた方です。仕事は陸、趣味は海、で情熱を生涯燃やし続けられた素晴らしい先輩でした。

名教就美会会長
永井孝雄


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